

平成8年5月発行の日本事務処理サービス協会(現日本人材派遣協会)設立10周年記念誌に掲載された記事を転載しました。
日本における人材派遣業の歴史が手に取るようにわかります。
日経スタッフの大石社長(当時)の執筆です。
*文中( )内の年代は昭和

昭和42年3月、まだ肌寒い東京・羽田空港に一人の背の高いアメリカ人が降り立った。
A・F・J・フィナティ(38)、米マンパワー社アジア・オセアニア地域総支配人兼マンパワー・ジャパン社社長である。
手にした大きな鞄には、米マンパワー社の日本進出に必要な書類がぎっしり詰まっていた。
ふと、彼の頭を、来日直前に会った多くのアメリカ人の忠告がよぎった。
「神秘の国日本で、テンポラリー・ワーク・サービス(TWS=臨時業務処理業)をはじめるなんてクレージー(気狂い沙汰)だ」というのである。
彼自身も、労働力が慢性的に過剰であるアジアの、雇用形態も労働観も違う日本で、果たしてTWS事業が成功するかどうか、一抹の不安を抑え切れなかった。
都心に向かうタクシーの窓から見る東京は、低い町並みが続き、東京タワーだけがやけに大きく見えた。
しかし、と、まだ若かった彼は気を取り直す。
親会社である米マンパワー社の日本進出の意気込みをもってすれば、この事業はきっと成功するに違いない。
なにしろこの日本は、世界三百五十以上の都市に拠点を持つ米マンパワー社の三十二番目の進出国で、しかも、アジア最大の未開拓市場である。
成功しないわけはないだろう。
このA・フィナティの来日が、日本の人材派遣業の第一歩となった。
米国でマンパワー社が発足(1948年)してから十九年年後のことである。
また、わが国に「人材派遣法」(略称)が施行される十九年前のことであった。
そのマンパワー・ジャパン社も、初めから「人材派遣会社」という看板で事業を始めたわけではなかった。
親会社の米マンパワー社の企業コンセプトは「TWS(テンポラリー・ワーク・サービス)と言い、「必要なとき、必要な能力・技能を持った人材を供給しよう」というものだったが、日本では、民間会社が他の会社に人材を供給することを禁じた法律(職業安定法第四十四条)があって、「人材派遣事業」と言う看板が使えなかったからである。
そこで、人材派遣法施行までの約二十年間は、どの人材派遣会社も「事務処理請負サービス事業」という名前で、事業を展開していくことになる。
(したがって現在の日本人材派遣協会は当初、日本事務処理サービス協会と言う名称で設立された。)

当時の日本の経済や社会の状況を振り返ってみると、米マンパワー社の戦略にはうなづけるものがあった。
昭和42年と言えば、「すでに戦後は終わった」という経済白書(30年)から十二年、池田内閣所得倍増政策(35年)が始まってから七年。
「岩戸景気」「オリンピック景気」のあとの「四十年不況」を乗り越えて、日本の実質経済成長率が、多少のデコボコはあったが10%前後の高度成長に乗り始めた時期である。
人材需要も旺盛だった。
東京オリンピックの大成功(38年)のあとを受けて、社会全体にも活気が満ちていた。
東海道新幹線開通(39年)、名神高速道路の全通(40年)にみられるような社会基盤の整備も進み、日本経済には明るい展望が開けつつあった。
国民生活の面でも「新三種の神器」(カラーテレビ、カー、クーラー)が話題になり(41年)乗用車の生産台数が百万台を超えた(42年)のもこの頃である。
そこへ「資本の自由化」(42年)によって、外資の日本進出が始まる。
A・フィナティがまず狙いをつけたのも、東京へ続々進出してきた外資企業であった。
彼らの欧米の本社では、すでに派遣社員を利用する事業形態が当たり前になっており、TWS事業の何たるかを改めて説明する必要がなかった。
こうした外資会社を手がかりに、日本の企業にも事業を拡大していこうと言うのが、A・フィナティの作戦であった。
また、日本企業も国際的競争力をつけつつあり、商社やプラントエンジニアリング会社などでは、外国語による輸出入書類作成、処理と言った業務が急増し、とても社員だけでは対応しきれなくなっていた。
人材派遣事業に対する潜在的需要が発生していたのである。

このマンパワー・ジャパン社を追い掛けるようにして、日本の人材派遣会社が開業していく。
まず、「マン・フライデー社(竹内義信=44年東京)が、マンパワー・ジャパン社の日本進出2年後に開業した。
それに「センチュリー&カンパニー社(黒田純子=47年東京)、「タイムス社(長野時子=47年大阪、平成元年、日本テクニカルサービス社と合併)」、「テンプスタッフ社(篠原欣子=48年東京)」と続く。
50年代に入って「マンパワーセンター社(南部靖之=50年大阪、51年テンポラリーセンター、平成5年パソナと改称)」、「日本ウーマンスタッフ社(鈴木千恵子=51年東京)」、「花王社(竹安眞治=53年大阪、63年花絹と改称)」、それからやや遅れて「ビッグアビリティ社(大原慶一=東京)」が開業した。
まだこの他にも、この頃人材派遣業を始めた人たちがいたはずだが、残念ながらその実態は明らかでない。
ともかくこうして、マンパワー・ジャパン社が日本に進出してから十七年目の59年に発足する「日本事務処理サービス協会」(日本人材派遣協会の前身)の中心となる8社が出揃うことになるのである。
(注 この頃、労働省は人材派遣事業の法制化準備に取り掛かっていた。
そのためマン・フライデー社の竹内ら前記8社が中心になって業界団体を結成しようとしていた。)

「貴方、人材派遣会社をやってみたら。」
日本初の人材派遣会社マン・フライデー社を始めることになる竹内は、それまでヨーロッパの高級紙ガーディアンやディベルトのレップ(広告駐在員)をしていた。
営業先の商社の貿易部や国際部の連中が、なにもマンパワー・ジャパン社のような外国会社だけに人材派遣業をやらせておく手はないだろう、と言うのである。
当時、竹内はまだ30歳代後半で人生の転機を迎えようとしていた。
それに続くセンチュリー&カンパニー社の黒田は、マンパワー・ジャパン社横浜支店で仕事を覚え、会社を飛び出した。
48年にテンプスタッフ社を始めた篠原は、オーストラリアの会社勤めを辞めて帰国したばかりだった。
「今さらこの歳で、新しい会社に勤めるといっても、使ってくれるところもなさそうだし」と、オーストラリアで知った人材派遣事業を思い立った。
大阪でマンパワーセンター社を起こした南部靖之は、大学卒業時に就職試験に失敗し、「それなら」と、まだ学生のうちに自分の会社を設立した。
それも、全くの偶然からテンポラリー・システムのアイデアを思い付いたからだ、という。
就職のために訪問した会社の人事担当者が「忙しいからといって、その度に社員を増やしていたら、会社が潰れてしまう」というのを聞いて、「それなら、忙しい時だけ働いてくれる人材がいれば、会社は大助かりじゃないか」と考えた。
その頃、すでに大阪にはマンパワー・ジャパン社の支店が開業している。
それから3年遅れて、大阪で開業する花王社の竹安は、地元の会社の人事部にいて、毎年冬のボーナスを貰ったとたんに会社を辞めてしまう大勢の女子社員の補充に苦労したのが、人材派遣事業に乗り出した動機である。
ビッグアビリティ社の大原が事業を始めた頃は、マンパワー・ジャパン社開業から15年も経っており、人材派遣事業に対するビジネス界の需要も拡大しつつあった。
いずれにせよ、こうして誕生した人材派遣会社は、開業動機も実に様々で、今言うところのベンチャー企業のはしりであった。

「これは、いけそうだ」というカンと思い込みだけで、必ずしも成算がない、というのがベンチャー企業の特徴だろう。
これが、マーケティングの進歩した今なら、いくらベンチャー企業であっても、開業する時には市場調査をした上で、資金調達の目途ぐらいは付けてかかるものだ。
ところが当時開業した人材派遣会社のほとんどには、事業計画も資金繰りの当てもなく、いわば「やる気だけが頼り」の無手勝流に近かった。
そのために、日々、創業者たちのチャレンジと苦労が続く。
今日の人材派遣会社の発展は、こうした業界の先駆者たちの苦労、努力によるところが大きいが、それと同時に、時代の追い風が人材派遣業に有利に吹き、彼らの事業成功の後押しをしたからであった。
テンプスタッフ社の篠原が会社を始めたのは、オーストラリアの勤め先を辞めて帰国してから、わずか二ヵ月後。
資本金百万円で港区六本木にワンルームのマンションを借り、三日三晩徹夜で考えて作ったパンフレットを持って、これはという会社を片っ端から回った。
夜は英会話を教えて食いつないだ。
やっと派遣社員を派遣できるようになっても、給料の支払いが足りず、わずか二、三万円の金を実家に借金したりしている。
マンパワー・ジャパン社の横浜支店当時の黒田でさえ身銭を切った覚えがある。
人集めも大変で、「街頭で、これはという女性に、貴方働きませんか、と呼び込みのようなことまでしました」、「英語のできる駐留軍の社員に有給休暇を取らせ、クライアントに連れていって急場を凌いだ」という苦労話が尽きない。
マンパワーセンター社の南部の場合も、いくら若かったとはいえ、一見無謀に近かった。
大学時代の仲間三人と会社を始めるのだが、その時相談した経営学の教授が「止めたほうがいい」と、まず反対している。
資本金三百八十万円の半分は父親の栄三郎(のち社長)が出し、後は自分の貯金と友人から掻き集めた。
南部の取り柄は、思ったらすぐ行動を開始する行動力と、もって生まれた強運にあった。
三人の仲間と大阪市内を手当たり次第に飛び込みセールスに歩いた。
それも一日五十社訪問という、ものすごい勢いだったという。
大阪でやっと注文が入りだした51年秋、まだ会社設立から一年にしかならないというのに、二トン・トラック二台に安く仕入れた家財道具を積み込んで、東京支店開設に乗り込んで行く。
それも東京の人材派遣マーケットに関する予備知識はおろか、東京の地理さえほとんど知らなかった、というのである。
しかし、当時も東京には大企業の本社機能が集中し、あらゆる専門職種にわたって大阪とは比べものにならないほどの人材需要があった。
この一見無謀とも思える東京進出がなければ、今日のパソナ社はない、とさえ言われている。
花王社の竹安も、周囲の反対を押し切って、十坪足らずの事務所で事業を始めるが、二ヶ月間は電話一本掛かかってこなかった。
すでに50歳を越していた竹安は『商売青二才の追憶』という文章で「セールスに歩く御堂筋を吹き抜ける木枯らしが身にしみた」と回想している。
しかも、その半年後には東京の銀座へ支店を出す。
運転資金を借りに銀行に行っても、人材派遣業の事業内容を理解してもらえなかったのが「情けないやら、恨めしいやら」という時代であった。

こうした業界先駆者たちの人材マーケット開拓の苦労や努力が、あるときは日本経済の「高度成長」や「国際化」という時代の波に乗り、またある時は、景気後退期の産業界の「減量経営」の要請にこたえて、次第に実を結んでいく。
42年に日本進出を果たしたマンパワー・ジャパン社は、翌年、本社を東京・港区六本木の狭いオフィスから銀座に移し、第一号支店を横浜に開設(44年)したが、その時、社員はまだやっと十人程度に過ぎなかった。
事業が拡大軌道に乗り始めるのは、それからである。
横浜に続いて大阪、名古屋、福岡、札幌、神戸と次々に支店を広げ、49年には全国支店網の基礎を完成している。
ここまではマンパワー・ジャパン社のいわば独壇場であった。
日本企業の「人材派遣事業」(看板は「事務処理請負サービス事業」)に対する理解も進んだ。
46年にマンパワー・ジャパン社が、本社を銀座から赤坂に移した頃には、すでに顧客(クライアント)の80%が日本企業になっている。
派遣スタッフに応募してくる若い女性も増えた。
45年当時、女子高卒事務職25歳の月給平均が四万二千二百七十円だったのに対し、同じ25歳のマンパワー・ジャパン社の派遣社員は実働十八日で六万五千円だった。
ただ、いくら社会の理解が進んだとはいえ、どこまでも「派遣」は禁句だった。
地元の職業安定所からはうさん臭い目で見られ、時に呼び出しがかかった。
「職安(公共職業安定所)ほど怖いものはなかった」と、当時まだマンパワー・ジャパン社にいた黒田などは述懐している。
(註 人材派遣法施行前の「事務処理請負サービス事業」も、職業安定法第四十四条違反ではないか、という目でみられがちだった。
A社などは民営職業紹介事業関係者から告発されたが、54年東京地検から不起訴処分になっている。)
マンパワー・ジャパン社の成功は本国のアメリカにも伝わった。
46年、米ミルウォーキーのマンパワー・ジャパン本社に世界中の支店。
子会社が集まり開かれた国際会議で、マンパワー・ジャパン社ナショナル・マネジャー(国内営業責任者)の斎藤昭三が成績優秀子会社として表彰された様子を、マイニチ・デイリー・ニュース紙が写真入りで、大きく取り上げている。
その写真に写っている斎藤は、なんと紋付き羽織り袴というパフォーマンスで、日本の人材マーケット発展のPRに懸命であった。
大阪から東京に打って出たマンパワーセンター社は、54年テンポラリーセンター社に改名した頃から事業に弾みがついた。
「テンポラリー」というテンプラ屋に間違われそうな、なじみのない英語を社名にした心意気で、新宿支店を皮切りに神戸、横浜、名古屋、福岡、広島、札幌、静岡、仙台と一気に支店網を拡大していく。
59年には香港、シンガポール、西独、スイスと海外にも手を広げるまでになった。
篠原が女手ひとつで始めたテンプスタッフ社も順調に業績を伸ばし、開業七年目の55年には、クライアントが一千社余、年商も二十億円を越すまでになった。
57年には売り上げが業界第三位にのし上がり、50年代末までに事業の全国展開に必要な支店網が一応完成している。
57年の年末の日本経済新聞には「派遣業界、急成長」という大見出しの記事が掲載されている。
これを読んでも、この頃までに日本の人材派遣事業が曲がりなりにも産業界に定着した、と言えそうである。
マンパワー・ジャパン社のA・フィナティが来日して以来約十五年間の歳月がかかっている。
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